cul-de-sac

「芸術作品の意味は作品にあるのではなく、鑑賞者にあるのだ」 ― ロラン・バルト

Ustream『劇場に行かない週末』

Ustream『劇場に行かない週末』

Ustreamでお話したひとりごとを簡単にまとめてみました。
思い付いたままにあれこれ話しているのでまとまりがありませんが、備忘録です。

芸術の作品(発信側)と観客(受信側)

【芸術】一定の材料・技術・様式を駆使して、美的価値を創造・表現しようとする人間の活動およびその所産。造形芸術〈彫刻・絵画・建築など〉・表情芸術〈舞踊・演劇など〉・音響芸術〈音楽〉・言語芸術〈詩・小説・戯曲など〉、また時間芸術と空間芸術など、視点に応じて種々に分類される。(『広辞苑』第五版、岩波書店

「お芝居を観る」という行為は、一見非常に受動的な行為だけれども、一歩踏み込んでみるとその行為の主体である観客はただ受動的なだけの存在ではなく、創造的な側面も持ち合わせていると思う。
これは、一番大きな影響を受けているのはロラン・バルトの「芸術作品の意味は作品にあるのではなく、鑑賞者にあるのだ」という言葉。

観客という生き物


覗かれている側が覗いている側の存在を自覚することによって変容するように、芝居は観客が存在しないときと観客が存在するときとで異なるのではないか。

板の上と板の下と言う区切りに大きな隔たりを感じている。
板の上と板の下の人間は厳然と区別されていると考えている部分がある。
しかしその区別があるというだけで、劇場にいるのはいずれも変わらぬ人間達である。
かたや板の下でぬくぬくと覗き魔をしている人間達と、かたや板の上で心身を削っている人間達との関係性が面白いと思っている部分がある。
それでいて前述の通り観客と言う存在が作品に干渉している側面を見逃せない。
「観客は好きだけど信じられないよ。個人としてはいい人達なのかもしれないが、集団となると頭の無い怪物で、どちらを向くかわからない」(音楽劇『ライムライト』より)

作品(発信側)と観客(受信側)とが抱える問題

言語の限界

言葉の檻

ピーター・トラッドギル『言語と社会』
思考が言葉の檻から抜け出すことは基本的にできないという制約を受けている。
言葉が各人の持つ(持ち得る)世界を規定している。
各々の持つ言葉の檻の特性・言葉への嗅覚の違いによって同じものを摂取しても得るものが異なってくると思う。

同じ場所で同じものを観たとしても異なる感想や考えを持つことは必然であることを再認識。
観客ひとりひとりが人生の中で培ってきた物差しや持っている世界をもってして、芝居を咀嚼してどんなものが観客の中に生ずるのかという違いに興味を持っている。

現実と虚構の境界線

「インプレサリオ(興行師)は観客を制御できない」と頑なに思っているところがある。
演劇はもちろんのこと、日常のコミュニケーションでも、人間が放った言葉や立ち居振る舞いがどう受け止められるかは、発信した側には制御できない。

現実と虚構を行き来しながら生きている俳優さんたち

現実であっても虚構であっても相手を制御できない部分が残されていて、その非力さを自覚したうえで必死になっている姿を、見ずにはいられない、興味をそそられる自分がいる。

芸術鑑賞がお好きな方は、作品に触れることで自分がたどる思考の過程や自分の中に生ずるものを実感することで、自分というものを再確認する楽しみがおありなのではないか。
物語(作品)は基本的にいずれもopen-endedであるはず。
これら虚構のものに対して自分がどう触発されるかというところに、現実の「自分」というものの主題が隠されているのではないかと思っている。