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cul-de-sac

「芸術作品の意味は作品にあるのではなく、鑑賞者にあるのだ」 ― ロラン・バルト

音楽劇『ライムライト』

音楽劇『ライムライト』

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2015年7月5日(日)~15日(水)
@シアタークリエ
http://www.tohostage.com/limelight/index.html

原作・音楽=チャールズ・チャップリン
上演台本=大野裕之
演出=荻田浩一
http://ameblo.jp/onohiroyuki/entry-12051180666.html

2015/07/13(Mon)19:00開演
観劇してきました。以下はその覚書と感想です。
盛大にネタバレしているので、未見の方やネタバレがお嫌いな方は読まないことをおすすめします。
よろしくおねがいいたします。


↓公式サイトより↓

story

1914年、ロンドン。ミュージック・ホールのかつての人気者で今や落ちぶれた老芸人のカルヴェロ(石丸幹二)は、元舞台女優のオルソップ夫人(保坂知寿)が大家を務めるフラットで、酒浸りの日々を送っていた。

ある日カルヴェロは、ガス自殺を図ったバレリーナ、テリー(野々すみ花)を助ける。テリーは、自分にバレエを習わせるために姉が街娼をしていたことにショックを受け、脚が動かなくなっていた。

カルヴェロは、テリーを再び舞台に戻そうと懸命に支える。その甲斐もあり歩けるようになったテリーは、ついにエンパイア劇場のボダリング氏(植本潤)が演出する舞台に復帰し、将来を嘱望されるまでになった。かつてほのかに想いを寄せたピアニストのネヴィル(良知真次)とも再会する。

テリーは、自分を支え再び舞台に立たせてくれたカルヴェロに求婚する。だが、若い二人を結び付けようと彼女の前からカルヴェロは姿を消してしまう。テリーはロンドン中を捜しまわりようやくカルヴェロと再会する。劇場支配人であるポスタント氏(吉野圭吾)が、カルヴェロのための舞台を企画しているので戻って来て欲しいと伝えるテリー。頑なに拒むカルヴェロであったが、熱心なテリーに突き動かされ、再起を賭けた舞台に挑むが・・・。


↓ここから私の覚書・感想↓
一度しか観劇していないうえ、メモを取りながら観劇しているわけではないので、内容に前後や間違い等あるかと思いますがご容赦ください。
あくまで一個人の覚書・感想です。

note

物語は公式サイトの「story」で説明されている通り。
老道化師・カルヴェロと若きバレリーナ・テリー、いずれも舞台に生き、そして転落した経験を持つ二人。
物語の冒頭、死ぬことばかり考えているテリーに対して語りかけるカルヴェロだが、その言葉は自分自身に対しても語りかけられているように感じられる。
「人生を恐れてはいけない。人生に必要なのは勇気と想像力と…あとは少しのお金だ」
「死と同じように避けられないものがある。それは生きることだ」

テリーを支えるため、カルヴェロは名前を伏せて劇場に立つが、彼の芸に観客は冷ややかな反応を示す。カルヴェロの契約は打ち切りとなってしまう。
「観客は好きだけど信じられないよ。個人としてはいい人達なのかもしれないが、集団となると頭の無い怪物で、どちらを向くかわからない」
やがて心折れたカルヴェロはテリーの前で弱音を吐いてしまう
「私はもう終わりだ」
この言葉に今度はテリーがカルヴェロを励ます。
懸命に励ますうちにテリーはいつの間にか立ち上がり、歩いている自分に気が付く。
「私、歩いてるわ。カルヴェロ、見て。私、歩いてるわ」
歓喜の涙を流すテリーと優しく抱き止めるカルヴェロ。二人の心が通い合っているのが伝わってくるようだった。

歩けるようになったテリーはバレリーナとして再起しはじめる。
カルヴェロは歩けるようになったテリーのことを喜びつつも、自分が舞台に立つことには後ろ向きの様子だった。しかし周囲の後押しもあり舞台に立つようになる。

テリーはとうとうプリマのオーディションを受けることとなり、かつて文房具店で働いていた頃に淡い恋心を抱いていた作曲家のネヴィルと再会する。
テリーの踊りは劇場支配人のポスタント氏の心を掴み、プリマとして契約することとなった。契約のため舞台から別室へと向かうテリー達と、オーディションの舞台の袖に取り残されるカルヴェロ。ほどなくして契約を終えたテリーがカルヴェロを探しに戻ってくる。
「どうしたの?こんな暗いところで」
「老いぼれが明るいところで泣いていては可笑しいからね」
そんなカルヴェロに、テリーは告げる。
「このときをずっと待っていました。あなたを愛しています。
おねがい、私と結婚してください」
しかしカルヴェロは、テリーにはネヴィルがお似合いだといって取り合おうとしない。
「私があなたを愛している、大切なのはそれだけ」

テリーのプリマとしての初日、カルヴェロも道化師として出演していた。
舞台袖でテリーは弱気を起こして今にも倒れてしまいそうだった。
「踊れないわ。麻痺しているの。転んでしまう」
「大丈夫、こころの問題だよ、脚は動く、さあ踊るんだ」
カルヴェロに抱き締められて送り出され、テリーは無事舞台を務めあげる。

終演後にはテリーのプリマ御披露目パーティーが開催されていた。
テリーはお祝いの輪から抜け出しカルヴェロを探し出す。
「素晴らしかったよ。君は本物の芸術家だ。一夜にして名をあげた」

ところが、やがてカルヴェロは若い二人を結び付けようと、身を引くようにしてテリーの前から姿を消してしまう。

意気消沈するテリーにネヴィルは言う。
「君はカルヴェロを愛しているんじゃない。憐れんでいるんだ」
「憐れみ以上のものよ。私はそれと生きてきたのよ。
彼のこころ、彼の優しさ、彼の悲しさ。
私と彼を離すことはできないわ」

テリーは喪失感から病気になるが、立ち直るとプリマとして欧州ツアーに参加、名声を高めていった。ネヴィルは徴兵されるが、休暇の際には極力テリーと会うようにしていた。
カルヴェロは大道芸人として細々と生活していたところで偶然ネヴィルと出会う。
「テリーとは会っているのかい?」
「はい」
「時は偉大な作家だ。常に完璧な結末を書き上げる」
カルヴェロはこのままテリーとネヴィルが結ばれることを望んでいる様子だった。
「今日会ったことをテリーに話しても?」
「いや。心配するだろうから」

しかしテリーはカルヴェロがいることを聴きつけて会いに来る。
「ポスタントさんがあなたを主役に大きな舞台を企画しているの」
「お情けはいらない」
「お情けじゃないわ、歴史に残る記念公演になるわ」
テリーの熱意に押され、カルヴェロは再び舞台に立つことを決意する。

本番前、テリーはカルヴェロに内緒で、さくらの客達と笑うタイミングを打ち合わせしていた。カルヴェロは化粧前で心臓に悪いからと止められている酒を飲んでいた。空になった酒瓶を見付けて心配するテリー。だが無情にも開演の幕が上がった。
出番を終えて楽屋に戻ってきたカルヴェロは背中の痛みを訴える。心臓の発作による痛みだった。客席からはアンコールを求める拍手が湧き起こっていた。
「あの拍手はさくらじゃない」
カルヴェロは痛みを堪えてアンコールに応える。けれどもう身体は限界だった。
アンコールから戻り、寝椅子に横になったカルヴェロの手を握り締め、テリーは
「すぐに戻ってくるから」
と舞台へと出ていく。
「テリーが踊る姿が観たい」
カルヴェロの最期の言葉に、楽屋のみんなは舞台が見えるよう、寝椅子ごとカルヴェロを運んであげるのだった。

impressions

『ライムライトとは電球が普及する以前に舞台照明に用いられた照明器具で、名声の代名詞でもある。』(Wikipediaより)

随所に出てくる台詞が心に沁みた。
何度もリフレインする『Eternally』の調べが切なく美しかった。
そしてカルヴェロがアンコールで歌う『You are the Song』が本当に素晴らしくて、最期の舞台にしてあの芸術表現にたどりついたことに涙が出た。

「舞台は嫌いだ。血も嫌いだ。だが身体の中には血が流れている」
最期にこの言葉を体現してみせるカルヴェロ、見事である。

カルヴェロはテリーからの求婚に終始応じない。
愛しているからこそ応じてはならないとわかっているのだろう。
「それでも君は私を愛し続けるだろうね」
カルヴェロの言葉は説得力があって、格好良くて、悔しい。

「テリーが踊る姿が観たい」
ライムライトを浴びて踊るテリーを、寝椅子から見守るカルヴェロの死に様(生き様)が切ないと同時に不思議と美しくて、まるでカルヴェロがテリーを照らすライムライトになったかのようだった。
ポスターにある言葉『ライムライトは魔法の光。愛する君のため輝く光。』が脳裏をかすめた。

今作は愛の物語であることは勿論だけれど、舞台に立つ人々、ひいては健気に生きるすべての人々へのエールでもあると感じた。華やかな舞台に立つ道化師も、ひとたび舞台を降りれば一人の人間である。
しかし道化師本人がおおっぴらに「私も一人の人間だ」とは板の上で主張しない、できない。人間本来の愛や苦悩や哀切は、舞台の裏に置いて表へ出てくる。

「道化師」をモチーフとした有名な画家にジョルジュ・ルオー(1871年~1958年)がいる。
ルオーの言葉を引用すると、
『私は道化師が私であること、
道化師が私達ほとんどすべてであることを、はっきりと悟りました。
私達は誰もが多かれ少なかれ道化師なのです。』
人はみな華やかな衣装の下に真実を隠して生きている側面がある。
ただ、人生で向き合う人すべてが『観客』ではない。また、あるときは『観客』であった人があるときは『観客』でなくなるかもしれない。
人生のすべての場面が『表舞台』ではない。
誰かが「道化師」の「人間本来の愛や苦悩や哀切」を知っていたっていいのだ。