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cul-de-sac

「芸術作品の意味は作品にあるのではなく、鑑賞者にあるのだ」 ― ロラン・バルト

Ustream『私と愚かでバターな夜を』

Ustream『私と愚かでバターな夜を』

Ustreamでお話したひとりごとを簡単にまとめてみました。
思い付いたままにあれこれ話しているのでまとまりがありませんが、備忘録です。

観劇という行為

観劇という行為を繰り返しているうちに、板の上にだけ向いていた視線が、自分自身をはじめとする観客全般、板の下にも向けられていくようになった。
私は役者と観客という双方向への興味の萌芽を自覚した。

劇場のいたるところに存在する人間

人間とは、何かしらの入力がなされたときに、その入力に対して出力をかえす、言うなれば関数のようなものなのではないかと考えた。
しかも、人間という関数を時間微分するとゼロではない。
時間的変化に対して不変ではない。
板の上も板の下もそれぞれ時々刻々変化している。

自己の同一性と自己と他者の境界

自己の同一性

私という人間の同一性を誰が?何が?担保してくれるのか?
ジョン・ロックの記憶説「過去の行為に関して、初めに持った意識と一緒に、その観念を繰り返すことができる限りにおいて、その存在者は同じ人格の自己である」(邦訳:大槻春彦『人間知性論』岩波)
人間が同じ人間であることを保証するのは何によるのか?と考えたとき、この記憶説は 「健忘の問題」に触れると途端に瓦解する可能性のある拠り所であるように思う。
劇場の中にいる私と劇場の外にいる私の連続性とは?
私という主体が欲望を向ける対象の数は無数にあって、その無数にある欲望を向ける対象が手に入ったり手に入らなかったりする。
仮に手に入れて集めて行っても完全な不満のない主体(私)ができあがらない。
「主体性は対象の欠如から作り上げられている」(ジャック・ラカン
主体あるいは主体性とは『対象の欠如・不在の対象』から作り上げられているものであって、自分にとって特別な意味や重要性を持つその対象が不在であり欠けているからこそ、『対象への欲望』を掻き立てられて、自分にとって意味があると信じることができる生存(人生)を続けていくことが出来る。

自己と他者の境界

人間ひとりひとりの時間的差異と、人間A・人間B・人間C…の個性の差異の程度の違いとは?

役者という現象

現象に立ちどまって「あるのはただ事実のみ」と主張する実証主義者に反対して、私は言うであろう、いな、まさしく事実なるものはなく、あるのはただ解釈のみと。
厳密に同一の環境も正反対に解釈され利用される。事実というものはないのである。(ニーチェ著、原佑訳『権力への意志』)

役者と役柄の不可分

役者の肉体と精神が土台となって役柄ができあがっていると思う。
役柄=人格=person=ペルソナ(舞台でつける仮面)
「自己喪失状態の役者が演ずる役柄」という思考実験を一度はやってみたい。

演劇と人生の相似関係

人生の中でも、出会う人の観客的側面が支配的である瞬間があると思っていて、どこかで自分とは区切られた(第四の壁を隔てた)存在でありながら、観客が存在するという事実が自分という存在に干渉してくる。
自分と相対していた「観客的側面が支配的な」人がそうでない関係に変化することも有り得る、その逆もまた然り。

観客とは、その存在がないと演劇が完成しないひとつの要素だと思っている。
観客が演劇に干渉するように、自分と第四の壁を隔てた人が自分の人生に干渉している。
演じることと生きることの相似関係。
人生は自己を演じる舞台のようなものなのではないかと思っている。