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cul-de-sac

「芸術作品の意味は作品にあるのではなく、鑑賞者にあるのだ」 ― ロラン・バルト

ミュージカル『サンセット大通り』

ミュージカル『サンセット大通り』

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2015年7月4日(土)~20日(月)
赤坂ACTシアター
http://www.tbs.co.jp/act/event/sunsetblvd/

作曲:アンドリュー・ロイド=ウェバー
作詞・脚本:ドン・ブラック、クリストファー・ハンプトン
演出:鈴木裕美

2015/07/11(Sat)13:00開演 濱田めぐみ&柿澤勇人
2015/07/18(Sat)13:00開演 安蘭けい平方元基
観劇してきました。以下はその感想です。
盛大にネタバレしているので、未見の方やネタバレがお嫌いな方は読まないことをおすすめします。
!!!注意!!!
登場人物ジョー・ギリスの性的嗜好性的指向)について勝手な妄想を爆発させています。
嫌な予感がする方は読まないことをおすすめします。
よろしくおねがいいたします。

↓公式チラシより↓

story

売れないハリウッドの脚本家ジョー(平方元基柿澤勇人)は、借金取りから逃れる途中でサンセット大通りにある荒れ果てた屋敷に迷い込む。
そこには、かつて一世を風靡した大女優ノーマ・デズモンド(安蘭けい/濱田めぐみ)が怪しげな執事マックス(鈴木綜馬)と共に、過去の栄光にすがり生きていた。
映画界へのカムバックを夢見るノーマは、自ら書いた「サロメ」の脚本の手直しをジョーに依頼する。
お金のために仕事を引き受けたジョーだったが、二人の関係は次第に仕事を超えたものとなってゆく。
脚本家仲間のベティー(夢咲ねね)に惹かれていく一方、自分を独占しようとするノーマに嫌気がさしたジョーは屋敷を出て行こうとするが…。

↓ここから私の感想↓
各ペア一度しか観劇していないうえ、メモを取りながら観劇しているわけではないので、内容に前後や間違い等あるかと思いますがご容赦ください。

ノーマとジョー

二人のジョー

ノーマとジョーの関係を考えるとき、私はとりわけ二人のジョーの違いをひしひしと感じた。うまく説明できないけれど、苦肉の策が以下のレーダーチャート。

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ジョーという人物を構成している要素がまったく異なっている訳ではないものの、要素のふりわけがかなり異なっている印象だった。

冒頭Let’s Have Lunchで「これがハリウッド、愛してるよ」というところ。
平方さんジョーはどことなく気怠げな色男、柿澤さんジョーは少々自棄な青年、という印象を受けたのが大きいかもしれない。
「kiss someone’s wife」決定打はオーディション待ちの巨乳女優さんににっこりな平方さんジョー、ああハイハイな柿澤さんジョー。
「汚れた靴(隠喩)を舐めろ」決定打はライバル脚本家の股間を触って『おまえ枕営業しやがったな』とでも言いたげな柿澤さんジョー、『誰だよこの若造』くらいの平方さんジョー。
腐女子的見解では平方さんジョーは基本ストレート、柿澤さんジョーは基本バイに見えた。
そのためか、シェルドレイクに対する「300ドル貸してもらえないか」も、そのときの周囲の喧騒も、全然違ったものに感じられた。

ノーマとジョーについて。
ジョーはノーマを利用することを一切考えなかったわけではないだろう。ただ、何度かある「出て行きなさい」という場面でドライに従うジョーではない。ジョーはノーマに対して、利用してやろうという気持ち以外にも、往年の大女優を憐れむ気持ちや、尊敬する気持ちが多かれ少なかれあったのではないだろうか。

ジョーのお誕生日に仕立屋さんを呼んでうきうきとお洋服を選ぶノーマ。
二人きりのNew Year’s Eveのダンスで少女のようにはしゃぐノーマ。
こうした様子からジョーのノーマに対する情というものは増していったのかもしれない。

一幕ラスト、自殺未遂を図ったノーマのもとへ戻るジョー。
平方さんジョーは、部屋に入るなりノーマのすぐ傍へと行って、落ち着かせるように話をする。柿澤さんジョーは、「どうしてこんな状況を招いてしまったんだ」という感じで、階段で頭を抱えるような仕草をする。
どちらのジョーもノーマの自殺未遂を心配しているけれど、平方さんジョーはノーマへの憐憫の情が強く、柿澤さんジョーは自分への苛立ちが強く表現されているように思った。
けれどもノーマと対話するうちに、ハリウッドという世界で、まがりなりにも脚本家として雇ってくれた、親切にしてくれたノーマへの想いをジョー自身が強く意識したのだろうなとも思った。

また、ノーマがジョーに「叩いてもいい、怒鳴ってもいい、私を嫌いにならないで」と縋り付く場面。無言でノーマを見下ろすジョー。平方さんジョーは「みっともないからもうやめよう」の割合が多くて、柿澤さんジョーは「これ以上、俺を束縛しないで」の割合が多くて、でもどちらでもあって、他にも様々な感情が綯い交ぜになって、息詰まる沈黙だった。

観劇したあと、ジョーについて考えながら呟いたこと。

優しさと優柔不断さの履き違えもさることながら、ジョーの優しさは弱さや甘えと表裏一体だと思う。
「50であることは悲劇じゃない、25のフリをしない限りは」
屋敷を去るときになって最後の誠意で伝えたのかもしれない。だがこの言葉は『女優』ノーマには届かない。今更そんな言葉が通じると思うところが、ジョーの優しさであり、弱さや甘えだと思う。

 

ノーマとマックス

「私は彼女の父親くらいの年齢だ」というデミル監督の言葉。
「ハリウッドの創世記に将来を嘱望された若き三人の監督がいた、グリフィス、デミル、そしてもう一人がこの私だ」というマックスの言葉。
二人の言葉から、この三人が同世代の可能性が充分に考えられる。
つまり、ノーマは16歳で出会った父親くらいの年齢の男性・マックスと最初の結婚をしたことになる。

また、マックスは「大女優ノーマ・デズモンドは私が生み出したのだ」といった意味合いの言葉も口にしていたと思う。

これらの場面から、マックスとノーマは夫婦であると同時に親子のような関係でもあったのではないかと私は感じた。
ハリウッドという世界に『女優』という生物として16歳(17歳?)で生を受け、そこで出会った父親くらいの年齢の『監督』が親子のような関係になることはそんなに荒唐無稽な想像ではないと思う。
マックス(親)はノーマ(こども)に、女優であること(こどもであること)を期待し、ノーマという無垢なこども(女優)は、親の期待に応えようと女優であることを最優先に考えるようになる。これが二人の『親子関係』の最初の形だったのではないだろうか。しかし二人は離婚してなお、年老いてなお、『親子関係』を解消することができなかった。親離れできないこどもだったのか、子離れできない親だったのか、あるいはその両方だったのかはわからないけれど…。個人的には互いに『親子関係』への嗜癖状態、共依存にあったのなら悲哀(言い換えると私が歓喜)だと思う。

デミル監督の「彼女はもう充分時代にあしらわれている」という言葉が切なかった。しかし門番のジョンジーはゲートを開けてくれるし、照明係のホグアイはスポットライトを当ててくれるし、デミル監督は時間のないなか出来る限りの歓待をしてくれる。
スタジオに現れたノーマに、周囲は騒ぎ出す。
「世界が私(ノーマ)待っている」のだ。世界が待っている『ノーマ』と、世界に再度現れようとしている『ノーマ』とが合致しているかは訝しいけれど。
「震えるこの手が知ってる生きがい、他にはない」
この場面で、幸か不幸かますますノーマは『女優』という生物として生きていくしかなくなってしまったような気がした。

ノーマは何度も結婚しているらしい。
まさか毎回旦那様を殺害して処分しているわけじゃないだろう。
離婚の度に、『女優』ノーマにふさわしい幕引きをマックスが御膳立てしていたのかもしれない。では今回、ジョーが死んでしまうことはマックスにとって想定の範囲内だったのか?考えると背筋がぞっとする。
『人間』ノーマと結婚できたのは最初の夫マックスだけ、後のひとつひとつの結婚生活は『監督』マックスが見守るなか『女優』ノーマ主演の『映画』なのかもしれない。

マックスとノーマは家庭(屋敷)に一緒にいる限り、(元)夫婦であると同時に親子である関係を断ち切れない。
大詰、ジョーを殺害して錯乱状態のノーマは、屋敷の階段上で「マックス、ここはどこなの?」と尋ねる。これに対してマックスが「サロメの撮影現場ですよ、宮殿の階段です、あなたの演技を皆が待っています」と答える。
『屋敷』を出て『サロメの撮影現場』に立ったノーマは途端に『サロメを演じる女優』になる。
マックスの「ライト!キャメラ!!!アクション!!!!!」は、最早サロメを撮影してくれる(と思い込んでいる)デミル監督の声にしか聞こえない。
最後の場面でノーマが『屋敷を出て行ってしまった』ことで夫婦としての二人は引き裂かれてしまったかもしれない。けれど女優であり続けたノーマに、マックスは満足しているような気がする。ノーマはマックスの思惑のなか、人間としての多面性を奪われていって、最後に残ったのが女優という一面だったのではないか。
「踏み外せないわね」
そう考えないと、辛過ぎるじゃないか。

ジョーとベティ

ベティはノーマとは対照的な存在で、若く、これから何者にもなれる可能性が残っている若い女性。婚約者のアーティに対しては「これは仕事よ、二人の夢追い掛けましょう」と言いながらも、ジョーに対しては序盤から「木曜に話を(しましょう)?」「夜なら空いてる?」「朝6時ならどう?」とかなり積極的な態度。脚本家としての熱意を表現しているのかもしれないけれど、脚本を二人で書いている最中に「二人は同じ職業、共通点が多い方が恋に落ちやすいわ」そして「私は寂しくてしかたがないのに」とどめに「アーティのこと、以前のようには愛していないの、あなたがいるから」。脚本を書くという共同作業を通してベティはジョーに惹かれていった、ジョーもまたベティに惹かれていったのだろうけれど、なんだか最初からジョーに気があって、すべてベティの術中のような気がしないでもない。仮にそうだとしたら、お誕生日を聞いて星座を確認したり、お誕生日プレゼントを用意したり、ダンスではしゃぐノーマの方が、よほどアプローチが乙女だと思った。

脚本を書き上げたとき、最初は二人の脚本だと言っていたのに、自分の脚本だと言うベティ(※)。平方さんジョーだと繰り返し脚本は君にあげると言い聞かせた結果に感じるのに対して、柿澤さんジョーだとジョー自身が捨て鉢になってベティの好きにさせた結果に感じたので、ベティの印象も異なった(露骨に言うと、柿澤さんジョーに対しての方がむごい女性に見えた)。

終盤、ノーマから不審な電話を受けて戸惑っているベティを、ジョーが実際に目で見て確認したらいい、と屋敷に招く場面。
平方さんジョーはベティを思ってだろうか、終始一貫この屋敷が自分の居場所だと説明をして突き放しているように感じた。柿澤さんジョーは自分の状況を自分に対しても言い聞かせつつ、混乱で支離滅裂な説明をしているように感じた。
単刀直入に言うと、平方さんジョーと柿澤さんジョーで状況説明の歌詞が違っていた気がする。実際は歌詞が違うのではなく、それだけ二人の演技が違っていたのかもしれない。もう確認のしようがないことだけど、書き留めておく。

※小道具としては、脚本は二人の連名になっているそう。
小道具の写真が下記リンクに色々載っていて面白いです。

 

その他

「才能は去年で在庫切れ」みたいな歌詞が印象的だった。
私もそんな言い回ししてみたい(する機会はない)。

借金取りから逃げるジョーは途中で棺桶に入る。そしてノーマの屋敷では亡くなった猿が棺桶に入る。ジョーも亡くなった猿と同様いずれは屋敷から去ることを暗示する演出なのかなとだいぶ経ってから気が付いた。

仕立屋(男性アンサンブル)の歌とエステティシャン(女性アンサンブル)の歌が同じメロディーなのがなんとなく御洒落だと思った。

大詰、英語版の歌詞
The world is full of Joes and Normas
Older woman, very well-to-do
Meets younger man, the standard cue
For two mechanical performers
ジョーとノーマが複数形になっているのが気になってエキサイト翻訳してみたら、
「世界は鬱病の発作(Joes)と基準面(Normas)でいっぱいである」
と出てきて、ダブルミーニングすごい…。

アーティは何も知らないままベティと結婚しそう。
10086を立ち去るベティはそれくらい吹っ切れているように見えた。
恋人(配偶者)の過去を全部知ることが果たして幸せなことなのか?
恐らくベティはノーだと考えるだろう。ジョーとのことは墓場まで持って行きそう。

私もお金持ちになって若いツバメにお姫様抱っこで寝室まで連れて行かれたいけれど、一体どれだけ痩せなきゃいけないんだろうと考えたら一気に萎えた。