cul-de-sac

「芸術作品の意味は作品にあるのではなく、鑑賞者にあるのだ」 ― ロラン・バルト

二人芝居『Equal-イコール-』LUNA ver.

二人芝居『Equal-イコール-』

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ヒエロニムス・ボス『悦楽の園』扉

2015年7月2日(木)~8日(水)
@赤坂RED/THEATER
http://www.watanabepro.co.jp/information/equal.html
STELLA《ステラ》ver. 三上真史×辻本祐樹
LUNA《ルナ》ver. 牧田哲也×山口賢貴

脚本・演出 末満健一
二人芝居『Equal-イコール-』 登場人物や場所等 :: 末満健一の「愚筆愚考」|yaplog!(ヤプログ!)byGMO

LUNA《ルナ》ver. 牧田哲也×山口賢貴
2015/07/03(Fri)19:00開演
観劇してきました。以下はその覚書と感想です。
盛大にネタバレしているので、未見の方やネタバレがお嫌いな方は読まないことをおすすめします。
よろしくおねがいいたします。


↓公式サイトより↓

story

18世紀初頭、ヨーロッパの田舎町。
青年ニコラは肺の病を患っており、もう長い間病床に伏していた。
幼馴染の青年テオは、町の小さな診療所で新米医師として働いていた。
テオが医学を志すようになったのは、幼い頃から病弱だった親友の身を案じてのことだった。
ニコラは、そんな自分がテオの人生にとって重荷になっているのではないかと心情を吐露する。テオは苦悩するニコラのために、かつて実在しながらも失われた学問「錬金術」を蘇らせようと試みる。それは「錬金術」における主要研究とも言える「不老不死」の実現を目指すものであった。
だが、死期の迫るニコラが次第に不可解な行動を見せるようになる。
そして、テオとニコラの運命の七日間がはじまるのだった。


↓ここから私の覚書・感想↓
一度しか観劇していないうえ、メモを取りながら観劇しているわけではないので、内容に前後や間違い等あるかと思いますがご容赦ください。
あくまで一個人の覚書・感想です。

note

 開演前。会場がコンパクトで驚く。舞台と客席のあわいが曖昧。
舞台上は安アパート?(劇中ではあばら屋と言っていたと思う)の一室。
机、本棚、薬などが置かれたサイドボード、外套掛け、テーブルと椅子、ベッド、そして曇った鏡。

最期の七日間が旧約聖書『創世記』における「天地創造」を引用しながら月曜~日曜の七幕で構成されていた。
幕が終わるごとに暗転するため、暗転によって集中力が途切れてしまうとあっという間に置き去りにされる。疲れているときには観られないかなという印象。
しかしこの暗転を利用して舞台上に「天地創造」の言葉が映写される。そしてニコラとテオが暗転の度にスイッチ(役者さんが入れ替わる)。しかし役者さんが入れ替わってもニコラもテオも各々連続性(※)を保ったまま物語が進行していく。
※ニコラ:肺の病を患った患者。テオ:町医者。

肺の病を患っているニコラはほとんど外出することもなく自室で過ごし、何やら日記のようなものを書いている。診療所から仕事を終えて帰宅したテオはそれを見付けて日記を見せてくれるようお願いするが、ニコラは抵抗する。
ニコラ「親しき仲にも礼儀ありって言うだろう。これを君が読んだら僕と君の関係はおしまいだ」

ニコラはテオが働く診療所の婦長・アドリエンヌさんの様子をしきりと気にする。その度にテオは陽気にアドリエンヌさんの物真似をしてみせ、会場からも笑いが起こる。アドリエンヌさんはいつも通りの様子だとテオは言う。
ニコラ「君はとてもよくできたやつだ」

発作(?)を起こしたニコラがベッドに横になった後、テオはニコラを医学で救うことが難しいことを独白する。そして入手した錬金術の本でなんとかニコラを救いたいと決意する。

ニコラはテオが恋人も作らず自分の病気の治療に腐心していることに引け目を感じていることを吐露する。
テオはニコラの妹オデットに好意を持っている。しかしオデットが三年前に結婚したことを告げられ衝撃を受ける。
しかし気を取り直して向かいのパン屋の看板娘マリエッタが気になっていることを打ち明ける。
ニコラ「君が恋人を作るのは僕が死んだとき」
テオ「君は死なない。僕が保証する」

テオはニコラが思い出話をしても覚えていないことが多い。
テオ「人間はすべての過去を覚えていられるわけじゃない」
時計塔にテオとニコラとオデットで登ったときのことも覚えていなかったが次第に思い出す。
ニコラ「オデットは君のことが好きだったんじゃないかな」
テオはオデットが自分のことを好きだったという言葉に舞い上がる。しかしオデットは三年前に結婚していると再度告げられ、初耳であるかのように衝撃を受ける。

毎日のように繰り返されるニコラの「アドリエンヌさんの様子はどうだった?」という質問に「いつも通りだったよ」と答えるテオ。
しかし、マリエッタのテオに対する態度がいつもと違ったことを話す。
マリエッタ「あなたは一体誰?」
テオ「毎日のようにパンを買っているのに、ひどい話だよな」

テオには次第に幻聴のような症状が現れはじめる。
テオ「僕は誰だ?」

テオが仕事を終えて帰宅すると、珍しく体調が良かったらしいニコラはテオの留守中に散歩に出掛けていて、ほどなくして帰ってきた。
ニコラ「君が君であることを証明できる?君は君の実在を証明できる?それが簡単に出来ないのと同じように、僕達は神の実在を証明できない」

「夜の時計塔から見た景色は、家々の灯りが美しくて、空から星が落ちてきたようだった」

ニコラはテオにマリエッタが死んだことを告げる。
ニコラ「マリエッタは黒魔術に手を染めていたらしくて、治安警察に処刑されたみたいだ。人は見掛けによらないというから…」
テオはニコラがマリエッタを侮辱するようなことを言ったので激昂し、ニコラをベッドに殴り倒す。しかしまた幻聴に襲われ、テオは苦しむ。
ニコラ「やっぱりだめなのか…」
ニコラはナイフ(?)を持ってテオに近付いていき、ナイフで自分の指先の皮膚を切ってその血をテオに飲ませる。

テオは外出先でオデットと出逢う。
オデットは「ニコラは六年前に亡くなった」と言う。テオがそれはおかしい、今もニコラは自分と一緒に暮らしている、と返すとオデットは涙を流し、テオをニコラのお墓まで案内してくれたと、帰宅した『テオ』は『ニコラ』に報告する。
『テオ』「僕は誰だ?君は誰なんだ?」
『ニコラ』は遂に真相を語り出す。
『ニコラ』は実はテオで、『テオ』はテオが作り出した七体目のホムンクルスだった。ニコラが亡くなってからというもの、テオは錬金術に没頭するが、奇しくもやがてニコラと同じ肺の病を患い死期が迫りつつあった。
テオはホムンクルスに血を介して自分の記憶を定着させることでもう一人の自分を作り出し、自分自身が死んでももう一人の自分(ホムンクルス)が錬金術、ひいては黒魔術の研究を続けられるよう画策した。

ホムンクルスの生成は困難を極めた。最初のうちは人間の形すら成さなかったが、次第に『もう一人の自分』へと近付いていった。しかし六体目のホムンクルスは『二人のテオ』の存在に混乱し、狂死してしまった。

そこでテオは七体目の『テオ』に対して自分が『ニコラ』として接することで混乱を回避しようとした。
『ニコラ』が書いていた日記のようなものは、実際はホムンクルス生成の記録だった。
「聖書は神が人間を作り出した話、このノートは僕がもう一人の僕を作り出した話、いわば聖典だ」

『テオ』「マリエッタを殺害したのは君だね?僕は、マリエッタの様子がおかしい、まるで僕が僕でない誰かなんじゃないかと怯えているようだったと伝えたけれど、あれは嘘だ。マリエッタはいつも通りだった。アドリエンヌさんと同じように、いつも通りだった。だけど君は、マリエッタが僕に特別な感情を持っていることから、僕がホムンクルスであることに本能的に気付いたのではないかと危惧してマリエッタを殺害した。アドリエンヌさんすら騙しおおせていたホムンクルスを成功品として遺すために。マリエッタが本当に僕のことを、君のことを想ってくれていたとしたら、これは大変な悲劇だ、君は君を愛する人をその手に掛けたんだ」

テオはテオを詰るうちに混乱し、幻聴に苛まれる。
そして再度ナイフで指先の皮膚を切って血を差し出すテオに、縋り付くようにして血を飲む。

「僕達はあまりにもイコールすぎた」
「時計塔に三人で登ったとき、ニコラが用を足しに行って、僕とオデットは二人きりになった。そしてキスをした。ファーストキスだった。オデットはどう思っていたかな?」
「君にわからないなら僕にわかりようがない」

『テオ』は『ニコラ』が書き記していた聖典を破り捨てる。
「数学でイコールは等号だ。こたえだ。イコールになればなるほど僕が本物のテオなのか君が本物のテオなのかわからなくなる。一晩中考えた。生き残った方がこたえだ」
「生き残った方がマリエッタ殺害の罪で警察に出頭する」
二人は互いに剣をとり死闘を繰り広げる。
とうとう『聖典を書き記していたテオ』が『聖典を破り捨てたテオ』に勝利し、ひとり扉を開けて外へと歩いていく。

impressions

早目に着席したので開演前の舞台をしげしげと眺めていてとりわけ気になったのが曇った鏡だった。まさか結末に大きな意味を持つ道具だとは思っていなかったので物語の進行につれて鳥肌が立った。

「夜の時計塔から見た景色は、家々の灯りが美しくて、空から星が落ちてきたようだった」
物語全体に横たわる『天地創造』との関連性を考えると、天(空)と地を見紛うほどのこの景色がテオとニコラを等号で結ぶ奇異なロマンス(物語、あるいは恋愛)のひとつのきっかけだったように感じた。
その後に三人で時計塔に登ったとき、テオとオデットはキスをする。
恐らくテオとオデットの間にも明確にロマンスが生まれた。
夜の時計塔に忍び込む幼い三人の間には相互に愛情が存在していた。愛情の形態とその主体と客体、換言すれば人間関係という鏡から、人間は自己を確認する(確立する)。三人の中にはきっとテオとニコラを区別するに充分な、オデットへの異なる愛情があったのではないだろうか。
仮に、フロイトの言う『ファミリーロマンス』から、ニコラがテオと同じようにオデットに対して恋人のような愛情を抱いていたとしても、オデットという他者が介在することでテオとニコラの関係は判別可能なものとして成立していたように思う。

しかしニコラの死から、テオはオデットの愛を拒絶してしまう。
テオは、自身とニコラとを切り分ける拠り所となっていた感情(オデットへの愛)を見失うことで、いよいよ二人を等号で結ぶ関係は強力なものとなった。
アドリエンヌさんにしてもマリエッタにしても、ホムンクルスの出来栄えを評価する指標程度にしか思っていないように見受けられる。
「アドリエンヌさんの様子はどうだった?」
繰り返されるアドリエンヌさんの物真似に、次第に客席から笑いが起こらなくなっていく空気が恐ろしかった。
そして無造作に揉み消されるマリエッタという女性。
「マリエッタが本当に僕のことを、君のことを想ってくれていたとしたら、これは大変な悲劇だ、君は君を愛する人をその手に掛けたんだ」

テオはニコラへの愛情だけに拘泥し、他の人間関係という鏡を持たなくなったことで一種の自己愛性パーソナリティ障害に陥ったのではないか。テオはニコラがいなくなって一層二人の境界を侵害できるような状況へと自分を追いやってしまった。
ニコラは自己の延長であり、分離していない存在であると考えるようになる、幼少の頃おぼろげだったテオとニコラを結ぶ等号を信じて疑わなくなる。テオがニコラに愛情を抱いているということは、すなわちニコラもテオに愛情を抱いているのが当然と考えるようになり、二人は特別な関係で結ばれるようになる。

テオにとってテオとニコラが等しく特別な関係だからこそ、テオは「ニコラを蘇らせる」ことから「テオを永遠に生きながらえさせる」ことへと容易に方向転換することができたのではないだろうか。
「君が恋人を作るのは僕が死んだとき」
この台詞には今になって背筋が凍る。
テオはニコラであり、テオにとって特別な関係にある人物はニコラであり、つまりテオはテオを作る、という意味に受け取れるような気がするからだ。

テオはホムンクルスに血を飲ませることで記憶を移植していた。記憶を植え付けることでテオとホムンクルスはイコールになる。
ここに私はジョン・ロックの『記憶説』の影響をみた。
ホムンクルスのテオ』は錬金術でニコラ(テオ)を救おうと決意する。
「君は死なない。僕が保証する」
これはロックがいう「過去の行為に関して、初めに持った意識と一緒に、その観念を繰り返すことができる限りにおいて、その存在者は同じ人格の自己である」(邦訳:大槻春彦『人間知性論』岩波)に相当すると感じたからだ。
一方で、二人のテオは記憶説の抱える問題点(主に健忘の問題)にも触れている。
「人間はすべての過去を覚えていられるわけじゃない」
二人のテオもまたイコールだった。しかし七日目のテオは
「一晩中考えた。生き残った方がこたえだ」
として互いに淘汰しようとすることとなった。
肺の病を患っているテオは、近い将来死ぬことがわかっている。しかし互いを淘汰しようとした、これは何故なのか。
個人的には、理由は二つあるように思った。そしてどちらにも共通するのは『混乱しているのはどちらのテオなのか、イコールとなってしまった二人のテオには区別が付かない』という性質を感じた。
ひとつは、マリエッタへの贖罪と『フランケンシュタイン』(そして『失楽園』)との間テクスト性
もうひとつは、『他者の欲望を欲望する』こと。
ホムンクルスの生成という内容の今作から失楽園フランケンシュタイン)との間テクスト性を見出さずにいるのは難しいと思う。
ホムンクルスのテオはマリエッタへの愛情を経験しながら(させられながら?)テオにホムンクルス生成を成功とするためという身勝手な理由でマリエッタを喪失させられる。これは「アダムを創造しておきながら楽園から追放する」失楽園フランケンシュタイン)の縺れのように思える。もしテオがマリエッタによってホムンクルスの存在を知られてしまったとして(思い込んで)、七体目のホムンクルスを殺害しようとしたならば、まさしくフランケンシュタインの文脈を彷彿とさせるものだっただろう。縺れと表現したのは、消失させようとした対象が創造物ではなく、創造物が創造物であることを映した鏡(マリエッタ)だったからだ。
この咎は二人のテオのどちらかに従属するものなのか、どちらにも従属するものなのか、どちらにせよ最早イコールである二人にはわからない。
「一晩中考えた。生き残った方がこたえだ」
「生き残った方がマリエッタ殺害の罪で警察に出頭する」
この言葉の応酬から、マリエッタへの贖罪の必要性はどちらも感じていたということなのではないかと思った。
次に、『他者の欲望を欲望する』ことというのはジャック・ラカンの理論だ。これは私が学生時代に一般教養科目で聞きかじった知識なので詳細は下記リンクなどを参照されたい。
引用すると、「欲望とは、『自分の要求(欲望)と他者の要求(欲望)との差異の確認』であり、人間は自分と他者の要求(欲望)が全く同一であり差異がない時には、逆に欲望を生み出して維持することが出来なくなってしまう」。
二人のテオはそう遠くない将来この状態に陥る危険性を孕んでいる。だからこそイコールとなってしまった二人のテオが自己を確立する(選び取っていく)ためには互いを淘汰するほかなかったのではないだろうか。
私が観劇した回では『聖典を書き記していたテオ』が『聖典を破り捨てたテオ』に勝利する。聖典を書き記していたテオは、本当に警察に出頭するのだろうか?錬金術の研究を放棄することができるのだろうか?
狭い舞台にも関わらず、かなりの激しい擬闘が圧巻だった。

等号はプログラミング言語では代入演算子という役割を持つ。
ホムンクルスの生成というループの中にいる限り、テオは
i=i(テオ=テオ)
i=j(テオ=ニコラ)
という代入演算子によってiの中身がスイッチする。
私にはこれがテオとニコラを役者さんがスイッチして演じる形式に繋がっているのではないかととても興味深く思った。

全体的に、観客にとって想像の余白・可能性を、故意なのかそうでないのか(良くも悪くも)甚だ残してある作品だった。
観劇直後よりも、観劇してしばらく経ってからの方が、あれこれと想像を巡らせてしまいより作品に心をとらわれる感覚を味わった。

公演DVDどうしよう…。


参考リンク

 ジャック・ラカン - Wikipedia

『対象の欠如(自分にないもの)』を他者が埋めてくれる幻想と愛情の欲求1:ラカンの精神分析:カウンセリングルーム:Es Discovery