cul-de-sac

「芸術作品の意味は作品にあるのではなく、鑑賞者にあるのだ」 ― ロラン・バルト

舞台『トーマの心臓』

スタジオライフ
トーマの心臓』上演20周年 萩尾望都作品連鎖公演
舞台『トーマの心臓

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2016年2月24日(水)~3月13日(日)
@シアターサンモール
http://www.studio-life.com/stage/toma2016/index.html

原作=萩尾望都
脚本・演出=倉田淳

2016/03/06(Sun)18:30開演
2016/03/13(Sun)12:30開演
観劇してきました。以下はその覚書と感想です。
盛大にネタバレしているので、未見の方やネタバレがお嫌いな方は読まないことをおすすめします。
よろしくおねがいいたします。

↓公式サイトより↓

story

シュロッターベッツギムナジウム
そこは少年の季節のサンクチュアリ……
すべての少年たちは純粋ゆえに許せず
多感ゆえに傷つき秘密をかかえ
愛と憎しみのアンバランスのなかに
一条の光をさがしつづける

トーマの心臓
冬の終わりの土曜日の朝、一人の少年が自殺した。
彼の名はトーマ・ヴェルナー。
そして月曜日、一通の手紙がユリスモールのもとへ配達される。
トーマからの遺書だった。
その半月後に現れた転入生エーリク。
彼はトーマに生き写しだった。
人の心を弄ぶはずだった茶番劇。
しかし、その裏側には思いがけない真実が秘されていた。

↓ここから私の感想↓
メモを取りながら観劇しているわけではないので、内容に前後や間違い等あるかと思いますがご容赦ください。



タイトルロールという言葉がある。

タイトルロール


主人公の名が題名になっている映画や演劇などで、その主役。
広辞苑(第五版)』岩波書店


勿論、すべての物語の題名が、物語の主役になっているわけではない。
しかし『トーマの心臓』を観たあと、私が思いを巡らせた様々のことの中心にあったのは、物語の冒頭で投げ出された「トーマの心臓」ではないかと思った。
そして「トーマの心臓」にもっとも感応した人物のひとり、ユリスモールを主軸に、物語は進行していく。

ユリスモールへ
さいごに
これがぼくの愛
これがぼくの心臓の音
きみにはわかっているはず

トーマの手紙を受け取ったユリスモールは、その意味を考え続ける。

イスカリオテのユダ

信仰を疑い、愛を遠ざけ、自分自身を偽った。
ユリスモールは自らをユダと言っている。
彼には天使の羽がないと言う。
サイフリートにもがれてしまった。
より正確には、ユリスモールはサイフリートから心身ともに傷跡をつけられ、天使の羽を失ったと頑なに思い込み、心を閉ざしてしまった。
そうして彼は傷跡を背信の証文としてひたかくし、自分が愛することも愛されることも許さず、「本当の自分」を誰にも知られず生きていこうとしていた。
そんな彼にとってトーマは脅威だった。
トーマが茶番劇など関係なく、心底自分を愛していると、感付いていたから。

悪魔の誘惑

ユリスモールは何故評判のよくない上級生の招待に応じたのか。
それはサイフリートに祖母の影を見たからではないか。
金髪で、残酷な、歳上の人物。
「当ててみようか?きみの父上、ギリシア系だね?」
「すてきな黒髪だ」
血筋ゆえに、黒髪ゆえに、幼い頃から祖母に否定されつづけてきたユリスモールを、祖母の影を宿したサイフリートが、いともたやすく肯定してくれた。

その時、その一口の食物の後に、サタンがイスカリオテのユダの中に入った。(ヨハネ13:27)

これはユリスモールにとって甘美な体験だったに違いない。
ユリスモールは黒髪への偏見は「だれでも」持っていると答えた。その中には自分自身をも含まれているように感じた。いくら優等生の役割を果たしても、祖母に植え付けられた黒髪への偏見から、いつだって自分自身を充分に認められない。
祖母の(ひいては自己の)承認の不足を、サイフリートが満足させてくれるかもしれない、そんな幻想がユリスモールを蝕んだ。

ヨシュアのごとく

「草笛を吹いて
あの日も
あの日も
あの日も
どうして彼はあそこにいたのだろう
語る目をして」
トーマの心臓』は、トーマの衝撃的な死と遺書から物語が始まる。
トーマの存在は色濃く物語世界に漂いつづける。
私は生前のトーマを知らないけれど、トーマの遺書を知っている。
ユリスモールは生前のトーマを知っているけれど、トーマの遺書を知らない。
現実の生を失ったトーマを知っていく過程。
物語の終幕で、トーマの遺書をユリスモールが手にしたとき、「トーマの心臓」は「復活」を遂げる。
「人は二度死ぬという
まず自己の死
そしてのち
友人に忘れ去られることの死

それなら永遠に
ぼくには二度めの死はないのだ(彼は死んでもぼくを忘れまい)
そうして ぼくはずっと生きている
彼の目の上に」

トーマなんかじゃない

エーリクはトーマに生き写しの転入生だった。
エーリクは周囲からトーマと重ねられることに反発しながら、トーマに関心を持ち、やがてユリスモールを好きになる。
エーリクのむきだしの心は、何度となく閉ざされたユリスモールの心の扉を叩く。
ユリスモールは、エーリクの容貌がトーマを想起させるだけでなく、エーリクの無垢な感情がトーマと同じように「本当の自分」をひきずり出そうとしているような感覚に、ときに恐怖し、ときに苛立ち、ときに憎しみ、ときに惹かれた。
ユリスモールは言った。
「ぼくならたとえ愛してるからってあんなふうな自己のおしつけかたはしない!」
「愛してたなんて信じない!」
エーリクは深い悲しみを経験する。
「かわいそうなトーマ・ヴェルナー
信じなかったユリスモール
かわいそうなぼく」
悲嘆に暮れるエーリクに転機が訪れる。
義父シドとの出会いだ。
周囲がエーリクをトーマと同一視したように、シドがエーリクをマリエと同一視して引き取ると言っているのではないかという猜疑心を抱く。
しかしシドはエーリクにマリエの面影を求めているのではなく、二人がどちらもマリエを愛したから、二人は一緒に住めるのではないかと提案してきた。
シドのこの言葉は、エーリクのユリスモールへの言動に大きな影響を与える。
「信じないっていってももうこわくない
ぼくはきみが好きなんだ
だからここにいる」
しかしこの言葉はあっという間にシュロッターベッツギムナジウム中に知れ渡ることとなる。結局エーリクはトーマと同じことをしているんだと言われ、苦悩する。
苦悩するエーリクにもうひとつの転機が訪れる。
トーマ・ヴェルナーの父との出会いだ。
エーリクはトーマの父と語らうなかで、自分のかおかたちがトーマに似ているかではなく、
「結局はここにこうしてある思いがユーリに向かってることが
一番たいせつなことなのじゃないだろうか」
と考える。
そしてエーリクは遂にユリスモールに告げる。
「ぼくの翼じゃだめ?
もしぼくに翼があるんならぼくの翼じゃだめ?
ぼく片羽きみにあげる
両羽だっていい
きみにあげる
ぼくはいらない
そうして翼さえあったらきみは…
きみはトーマと…
トーマのところへ…」
この言葉を受けたユリスモールはいよいよトーマの手紙の意味を理解する。

神さまに見紛われた少年

オスカーはほとんどすべての事情を知っていた。
それでいて、ユリスモールのそばで、彼が心を開くのを待っていた。
「そうだよ
ぼくのカード
ぼくのジョーカー
でもぼくの望んだことは―
気づいてくれることだったんだ
きみでもミュラーでも
ぼくが愛してるってことに」
「許していた?」
「うんユーリ
ぼくは待っていた
それだけ」
オスカーは『訪問者』同様、『トーマの心臓』でも再び神さまに見紛われたのかもしれない。

終幕

エーリクの言葉からトーマの愛を受け入れ、オスカーの言葉から許すことを知り、ユリスモールは新たな一歩を踏み出そうとしていた。
「神さまは人がなんであろうと
いつも愛してくださってるということがわかったんです」
「愛しているといったその時から
彼はいっさいを許していたのだと
彼がぼくの罪を知っていたかいなかが問題ではなく
―ただいっさいをなにがあろうと許していたのだと」
ユリスモールはこれらがわかった時、神学校へ行くことを決意する。

最後に

トーマの心臓』に出会い、この壮大な愛の物語にうちひしがれた。
まずは物語の梗概に、キリスト教神学の色合いを感じた事実を書きとめることを主旨とし、種々のエピソードは省略したことが多数ある。
これらについては後日追記するかもしれないし、Twitterで呟いたりするかもしれないけれど、もう既に記憶が薄れつつあることを鑑みて一旦まとめとした。

2016/03/27 復活祭
トーマの心臓」が刻んだ愛と永遠を記念して。

 

追記

2016/07/27

おそらくそれは厳しすぎる批判であろうが、ただ個人心理学はわれわれの見解によれば、それが至る所に妥当欲を見出しているにもかかわらず、次のことを見落としているように思えるのである。すなわち道徳的な妥当へ向っての努力というべきものも存し、且つ少なからざる人間が単なる覇気以上のより激しいものに駆られうること、すなわちいわば地上的な名誉では全く満たされず、何らかの形で自らを永遠化することを深く追い求める努力に駆られうるということである。
ヴィクトール・E・フランクル『死と愛』みすず書房