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cul-de-sac

「芸術作品の意味は作品にあるのではなく、鑑賞者にあるのだ」 ― ロラン・バルト

舞台『訪問者』

スタジオライフ
トーマの心臓』上演20周年 萩尾望都作品連鎖公演
舞台『訪問者』

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2016年2月24日(水)~3月13日(日)
@シアターサンモール
http://www.studio-life.com/stage/toma2016/index.html

原作=萩尾望都
脚本・演出=倉田淳

2016/03/01(Tue)19:00開演
観劇してきました。以下はその覚書と感想です。
盛大にネタバレしているので、未見の方やネタバレがお嫌いな方は読まないことをおすすめします。
よろしくおねがいいたします。

↓公式サイトより↓

story

シュロッターベッツギムナジウム
そこは少年の季節のサンクチュアリ……
すべての少年たちは純粋ゆえに許せず
多感ゆえに傷つき秘密をかかえ
愛と憎しみのアンバランスのなかに
一条の光をさがしつづける

訪問者
家の中に居場所がないように感じていたオスカー・ライザーは、自分は父の本当の子供ではないのではないかと疑っていた。
ある日、母ヘラが何者かに撃ち殺されてしまう。
容疑をかけられた父グスタフは犯人は自分ではないと否定する。
オスカーは父が母を殺したこと、そして自分が父の子供でないことを悟る。
警察から必死に父をかばうオスカーは、父とともに逃亡の旅に出た―――。

↓ここから私の感想↓
一度しか観劇していないうえ、メモを取りながら観劇しているわけではないので、内容に前後や間違い等あるかと思いますがご容赦ください。

家族という小さな社会

家族の秘密

『オスカーの出生にまつわる秘密……それが父母の愛を破局に導き、思いがけない悲劇を呼び寄せた。』(小学館文庫「訪問者」裏表紙より)
母ヘラの死は、オスカーの出生にまつわる秘密を父グスタフに告げたことに起因している。
オスカーとグスタフは生さぬ仲の父子だったのだ。
グスタフはオスカーが誕生したときからそのことを悟っていた。
それでもそっと丁寧に壊れないように家族のふりを続けてきた。

夫婦の愛情関係とその子

ヘラは放浪癖のあるグスタフが家にいてくれるよう「子どもが欲しかった」と訴える。
グスタフはヘラから「(オスカーは)あなたの子じゃないわ」と告げられて衝動的にヘラを殺害する。しかし再三「そんなことを聞きたくなかったおまえの口から!」と心情を吐露している。
ヘラとグスタフは互いを愛していたけれど、互いが望む姿での愛を交わすことはできなかったのかもしれない。
父母の愛の擦れ違いの中で、幼いオスカーが自分の居場所を見付けることが容易でないことは、想像に難くない。

親子の愛着

人間の親子関係


親子関係では、文化圏によっては、ことさら「血のつながり」つまり生物学的な要素が強調されることがあるが、これは実は必ずしも一般的というわけではなく、どの社会でも血のつながりがあればただちに社会的にも親子関係が発生するとされているわけではない。このことは社会人類学者のB.マリノフスキーらによって早くから指摘された。 例えば、トロブリアンド諸島の原住民は、(生物学上の)父親が果たす役割を知らない。だが、タマと呼ばれる男性が母親の親しい人であり、愛情をこめて自分たちを養育してくれる男親であり、いわゆる今日の父親像と本質的に異ならない。つまり彼らは父子間の血のつながりは認識しないが、社会的な父親の存在を認めているのである。 このような事実があるため、一般に(厳密には)<<社会的な父親>>と<<自然的な父親(生物学的な父親)>>が区別され、<<社会的な父親>>のことをpater ペーター、<<生物学的な父親>>はgenitor ジェニターと呼ばれている。 母と子の関係も、必ずしも子供は産んだ女性に愛着を示すわけではなく、養育活動と血のつながりは区別されると指摘されており、<<社会的な母親>>をmaterマター、<<自然的(生物学的)母親>>をgenitrixジェニトリックスと区別する余地があるという。 英語では親であることを、biological parentage /non-biological parentage などと呼びわけることが行われている。

グスタフという男性

グスタフの優しさ

ヘラは言っていた。
「いつもそうね!黙りこくって無視してそれでことがすむと思ってるのね!」
「何かあると放浪癖を出して、数か月後に戻ってきてあなたは何事もなかったかのように元の生活に戻る、それが優しさだと思ってる」
「あなたは疑いながら尋ねもせずそのやさしさでわたしを苦しめ続けたんだわ」
本当の優しさとはなんなのか考えさせられる。
結局、優しい・優しくないは受け取る相手が判断することであって、極論を言えば「私は私の欲しい形の優しさしか欲しくない」ということになってしまうのではないかと思う。
少なくとも私はグスタフの優しさを全否定できない。
こういうやり方しかできない人間は、私含め、一定数いると思っている。

グスタフの哀しさ

「おまえはおれとなんの関係もないんだ!」と拳銃でオスカーを殴ってしまうグスタフ。
『そっと丁寧に壊れないように家族のふりを続けてきた』グスタフの哀しい慟哭だと思う。
それでもオスカーが自分に愛着を示しているのを感じているから、グスタフはその場でオスカーを消してしまうことはできないし、逃亡の旅にも連れて行く。
しかし逃亡の旅の最中でもグスタフの放浪癖が治ることはなかった。
人間はだれしも『魂の飢餓感』を多かれ少なかれ抱えているように思う。それを癒すことができるものは各人によって異なるに違いない。彼の魂の飢餓感を癒すことができるものは、周囲からは理解されにくいものだったのかもしれない。

オスカーというこども

ぼくは悪い子

「ぼくはとても悪い子なんだよ
銃の音が快感なんだもんね」
「どうしてパパはわかるんだろう
ぼくがそのときいちばん心にいってほしい言葉を言ってくれるんだろう」
「ぼくがいい子になっていってるんじゃないんだ
ぼくは変わらない
ただパパがぼくの中から引き出してくれるんだ」

父と子と神のおはなし

オスカーは幼い頃の冬、グスタフと猟に出掛けたときに、グスタフがしてくれた神の話を繰り返し思い起こしていた。そして冬が来る度にその話を思い返してはグスタフへの愛着を募らせていった。オスカーは、グスタフにとって自分が何者であるかをはっきりとは問いただせないまま、グスタフとの別れを迎える。

それでも父と

父に拳銃で殴られ、額にできた傷の治療の為に入院していた病院で、父を警察から必死にかばうオスカーのいじらしさに胸が詰まった。
「パパ!家に帰る!」と泣き縋るオスカーを抱き止めて、グスタフの胸に去来したものはなんだったのだろう。複雑な表情をしていたような気がする。
逃亡の旅のなかでは、雨に濡れて寒がるオスカーを、グスタフはひざに抱き、さすって温めてやる。
「パパがぼくをひざに抱いてくれるなんて
生まれてはじめてじゃないだろうか」
このときも、幸福そうなオスカーとは対照的に、グスタフはどこか強張った表情をしていたと思う。

「ぼくいまのままがいい
ぼくいまのままがほんとうにいいんだ」
少年という生き物にこんなことを言われたら誰もが息を呑むだろう。
時間は容赦無く流れていく。
凡人の私ですら、いまのままがいい、と思う瞬間があったことを思い出す。

「パパにはだれもいらない!
ママをかえせ!」
いよいよグスタフが父子二人だけの逃亡劇に限界を感じ、旅の終わりを切り出したとき、遂にオスカーはグスタフを詰る。
そして幼心に、グスタフにとって自分が「許される子ども」にはなれなかったことを察知する。

シュロッターベッツへと辿り着いたオスカーとグスタフの別れの場面では胸が張り裂けるかと思った。直後に知り合った同級生に向かって、オスカーはグスタフのことを「おやじ」と呼ぶ。少年が一線を越えた瞬間を目撃した。

最後に

私がこの作品ともっと若い時分に出会えていたら、きっと景色は随分違っていただろうし、もっと歳を重ねてから再度出会っても、きっと景色は随分違うような予感がしている。


私にも出生の秘密がある(他人様からすれば些細なことだろうけれど、私にとっては今でも常に頭の片隅にあって、時折猛威を振るう)。そしてオスカーの場合は父だが、私の場合は母にとって「或る者」になりたいという願いがあった。その願いが叶えられなかった事実は覆せずに今も私の中に重苦しく横たわっている。
親子関係という、問答無用でやってくる最初の社会関係に、傷痕がある人々―恐らくそれはすべての人々―に何か響くものがある作品なのではないかと思った。

追記

2016/03/07

オスカーの罪悪感
オスカーは幼いながらに非常に聡明で、家庭という社会関係の機微を察知する能力に長けていると同時に、こども特有の罪悪感を纏った少年という印象を受けた。
オスカーは順応性の高いこども(Adapted child)の自我状態が強く現れている。
ヘラは批判的な親(Critical Parent)の自我状態が強く現れている。
「ママは何を飼ってる?」
「ぼくだよ」
オスカーとヘラの関係が健全であると言えるかは甚だ疑問だ。
しかしながらオスカーとヘラのこの関係は、オスカーを「エディプスの勝者」(エディプスコンプレックス)たらしめている一面がある。
自身がエディプスの勝者であることが、オスカーの罪悪感の根源のひとつと言えるように思う。

2016/03/13

・グスタフは「黙りこくって無視してそれでことがすむと思ってる」、「何事もなかったかのように元の生活に戻る」、それが優しさだと思っている。
私の父の「優しさ」に似ていると思った。
私の父はルンペンではなかったし、放浪癖もなかったけれど、母が父に挑発的な態度を取ったり、家庭内で目に見える不和が生じても、大抵父は沈黙を貫いた。
父の目の前で、母が私に理不尽な罵倒の言葉を浴びせていても、暴力を振るっていても、父は何も言わずにその場を離れることが多かった。
そして夕食の時間になると、母の気が立ったままでも、私が目を真っ赤に泣き腫らしていても、父は何も言わずに晩酌した。
それが彼なりの優しさだと気付くことができたのは私が随分いい歳になってからだった。
父は母がいるところでは私にあまり関心がないかのように振る舞った。
しかし言い換えれば母がいないところでは私に関心をもって接してくれた。
幼い頃、私が不注意から火傷をしてしまい、父にこっそりと「火傷をしてしまった、母に言えば烈火のごとく叱られる、ひとまず手当てまでで良いから母に内緒でやってほしい」とおねがいしたことがある。そのときの父の甲斐甲斐しい手当てを私は今も時折思い出す。
父のこうした「優しさ」が、グスタフと完全に同じ理由からくるものではないことは間違いないけれど、経緯はどうあれ、私がグスタフの「優しさ」を唾棄することができないのは、そこに私の父の影を見ているからかもしれない。
・人間が一般的に持っている「自分の行動が周囲の人間にもたらす影響に対する当事者意識」が、「人間を取り巻くしがらみ」みたいなものとなって良くも悪くも人間の行動を制限している側面があると思う。


グスタフにはそれが欠落している…は言い過ぎだけれど、希薄であるように感じた。
・父の私に対する関心の低さは、私の家庭における異邦人感を醸成した。けれど母のいないところで父が見せてくれた私に対する関心は、私の父への愛着の源となっている。
子が親を選べないように、親も子を選べない。
グスタフは自分の父としての適性に思い悩みながら、互いの最良の道を模索した結果がオスカーをシュロッターベッツへ連れて行くことだったのだと思いたい。
・基本的にはオスカーの視点で時系列に沿って進行していく物語の中に、グスタフの回想が挿し込まれ、グスタフの幼少期の出来事、グスタフとヘラの最後のやりとり、オスカーの出生の秘密が徐々に明らかになっていく演出が印象的で、終盤オスカーが感情を剥き出しにする場面により訴求力が生まれていたように思う。

ブラームス


・劇場のもぎりのところで、『トーマの心臓』では「シュロッターベッツへようこそ」と言われたのだけれど、『訪問者』では言われなかった気がする。これは『訪問者』が、オスカーがシュロッターベッツへと辿り着くまでの前日譚だから?それとも私の単なる記憶違い?気になるところ。